美容外科への道~その14 研究から再び臨床へ
豊橋市民病院勤務時代1995年4月~2000年3月
1995年に博士号をとりオーストラリア留学も終えて帰国した私を待っていたのは「豊橋市民病院」への赴任でした。
大学病院の慣習として、博士号を取得するとその後数年は「お礼奉公」として大学の関連病院へ出向することになっています。
赴任当時、豊橋市民病院は豊橋駅から歩いて10分もかからないところにあったので、自宅から病院まで約1時間半の通勤でした。ところが1年もたたないうちに病院は駅から数キロ離れた所に移転になり、通勤時間が30分余分にかかるようになりました。
そのころの私は名古屋に居を構えたばかりだったので自宅から何とか通勤したいとおもい、このころから新幹線通勤を始めました。(名古屋~豊橋間は「こだま」になりますが、一気に30分弱の通勤時間短縮になります)
↑当時の「こだま」はこの0系新幹線。(0系はつい先日惜しまれつつ現役を引退。本当にお世話になりました。)
私の新幹線好きはちょうどこのころからです。朝は新幹線に乗ってから朝食をとり、顔を洗い歯を磨き、その後新聞を読むと豊橋駅、という具合。帰りはちょっとした仕事の続きや読書を楽しんでちょうど名古屋駅。という生活を4年近くしました。
5年間の「豊橋市民病院」勤務はというと、臨床の腕があがったという実感は残念ながらほとんどなかったように思います。それよりも新病院のために毎週毎週経営会議で院長先生の「(保険診療の範囲で)売り上げをあげてください」というのを聞かされるのがだんだんつらくなってきていました。
保険診療も優れたシステムにちがいはないのですが、その限界を感じつつあったのも事実。特に美容外科に傾きつつあった私の診療スタイルだと自由診療の方が向いているのでは?と思い始めていました。